黒岩涙香の翻案した海外探偵小説が新聞で人気となると、他の新聞社もこぞって探偵小説を連載し、明治20年代半ばには探偵小説のブームが起こってゆく。当時の人気出版社春陽堂が明治26(1893)年に始めた「探偵小説」シリーズは、翌27年の2月までに26集が刊行された。しかし、ブームによって起きた人気はやがて質の低下によって下火となってゆくことに。涙香も批判を受けるようになり、翻訳の対象を探偵小説から他のジャンルへと広げ、明治34年にはフランスのデュマの「モンテクリスト伯」を翻訳し「史外史伝 巌窟王」を発表、その後も「レ・ミゼラブル」を訳した「噫無情」で翻訳者としての地位を不動のものとした。明治末期から大正初期にかけては、コナン・ドイルやモーリス・ルブランの翻訳なども刊行されたが、自然主義文学が流行していたこともあり、明治20年代のようなブームが起こることはなかったが、大正9(1920)年に青年雑誌「新青年」が創刊されると、数多くの翻訳探偵小説が掲載され、また創作探偵小説の懸賞募集なども行われ、「新青年」の初代編集長であった森下雨村によって、江戸川乱歩を筆頭に次々と新人ミステリ作家が世に出て行くことになる。(anjinho)
日本推理小説事始(2)

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